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講演会要旨(前編)

「密教マンダラと仏像」      講師 真鍋俊照氏

 今日の話は、「密教マンダラと仏像」というテーマで、ビジュアルに、視覚的な観点で曼荼羅の仏さんの成り立ちと、構造をお話したいと思います。 曼荼羅(まんだら)はあくまでも密教の弘法大師空海が請来した両部曼荼羅、あるいは両界曼荼羅というものです。両部曼荼羅はお堂の東側に胎蔵界曼荼羅(たいぞうかいまんだら)、西側に金剛界曼荼羅(こんごうかいまんだら)を掛けます。この曼荼羅を806年、9世紀の初めに中国から空海が持ち帰りました。残念なことに空海が持ち帰った曼荼羅は、お弟子の真済(しんぜい)【注1】が編纂した『性霊集』(しょうりょうしゅう)によりますと、お堂に掛けっぱなしにしておいたので、色が剥落してしまい、真済さんの頃には見られる状況ではなかったと伝えています。ですから空海の原本は残っていませんが、そのまたお弟子の宗叡(しゅうえい)【注2】いう人が請来した曼荼羅が、京都・東寺に残っています。それが伝真言院曼荼羅、国宝です。空海が持ってきた曼荼羅というのは4メートル四方ぐらいあります。現在その掛けた状態で残っているのは、京都の東寺、高野山の金堂ぐらいです。他はそれだけのものを掛ける高さがなくて、その状態を見ることが出来ないのです。

我々はよく仏さんを拝むといいますが、本来自分が拝みに行ったら正面で出迎えてくれるというのが仏さんの在りようですよね。ところがこの曼荼羅は、確かに仏さんの集まった絵ですが、我々を出迎えてくれない。つまりお堂に入ったら、「ふん」と知らん顔して、横向きに掛けられているのです。こういう掛け方は、奈良時代にはありません。全く新しい空海のアイディア、発想で成立したのです。空海は讃岐(香川県)屏風ヶ浦に、宝亀五年(774)に生まれ、17、 8歳まで高知県の金剛頂寺で修業をします。その後奈良に出て、『大日経』という経典に出会います。このお経が難解なんですが、これを何とか読みたいという思いもあって、中国へ渡る決心をします。遣唐使について長安に入り、青竜寺で恵果(けいか)という僧に出会います。この恵果が曼荼羅や灌頂(かんじょう)【注3】などの儀式も含めて大成し、空海に伝えたといわれています。

曼荼羅は何を現しているのかというと、「曼荼」は、真髄とか物の中心とか、人間が生きていくための根本的なすがるものですね。それを一口に悟りといっておりますが、私は曼荼羅は悟りをあらわした世界観ではなく、むしろ悟りを得るための手立ての構図、図解であると考えます。曼荼羅という言葉は、曼荼の語尾に所有格の「羅」が付きます。ですから、「中心を所有するもの、真髄を所有するもの」と理解されているわけです。

東側に掛ける胎蔵界の曼荼羅には、約410尊が描かれています。私も曼荼羅を描いた経験があるのですが、実際に描いていると様々な発見があります。例えば座っている尊は全部つながってくるのです。ばらばらに点在している尊を一枚づつカードに整理して順番に並べると、各尊が全部連続してきます。これはいずれ論文で発表したいと思っています。胎蔵界は十二大院という十二の箱からなっていて、中心から右回りに回っていき、最終的に中心へ戻ってくる構造を持ちます。中心は大日如来という宇宙的生命の仏。中心の定印(じょういん)から発して、色々な形をとりながら、最後にまた定印の形に戻ってくるわけです。もう一つの発見は、この大日如来が、実は非常に幼い童子の顔をしていることです。平安のごく初期の曼荼羅に関しては、大日如来は子供だよというイメージで描いているのです。これが鎌倉、室町、江戸になると、大人の顔になってしまいます。その区分けの意味が薄れてしまうのです。これに対して、西側に掛ける金剛界曼荼羅の大日如来は大人の顔をしています。大人と子供が曼荼羅という絵図を背負って向かい合っている状態で、これに深い意味があるだろうというのが私の考えです。

京都の東寺に伝わる伝真言院曼荼羅は、弘法大師から百年ぐらいたってから請来されたもので、成立は9世紀の終わりといわれています。これはごく初期の曼荼羅で、線は赤い主線で書かれています。非常に官能的で、生き生きとしている状態が克明に描かれています。江戸時代の写本にはもうないのですが、平安時代のものには体の周りに驚愕線(きょうがくせん)いうユラユラっとする線がたくさん描かれています。これはインスピレーション、あるいは体から気が出ているということを中国人は考えたのでしょう。全身からなんともいえない不思議な気を発していることを、何とか絵の中に描きこもうという意志が、初期の曼荼羅にはあったのですね。曼荼羅の仏さんはお釈迦さんがモデルですが、お釈迦さんが生きていた時代の生身の人間がモデルといえますね。生身の体というのは、生きているよ、生かされているよということを実感するわけですから、体は朱の主線で描き、そして隈取も克明に朱で入れるんですね。どの菩薩もなんかこう生き生きと中心の大日如来を見ながら、存在しているという感じがするのです。

また、空海が曼荼羅と一緒に持ち帰ってきた諸尊仏龕(しょそんぶつがん)が、高野山金剛峯寺にあります。空海が常に枕元に置いていたという伝承があるので、枕本尊と呼ばれます。ここには仏が説法をしている姿の周りに羅漢、菩薩などが二十尊ほど彫られています。木の下で説法する姿を、樹下説法図(じゅかせっぽうず)といいますが、おそらくこういうパノラマ式のものが胎蔵界の中心部、中台八葉院(ちゅうだいはちよういん)の構図の根拠になっていると私は考えております。

それから150年ぐらいあとに写された両界曼荼羅の乙本(東寺蔵)には、それまでの生き生きとした感じが消えて、暈取(くまどり)なども非常に平面的になってきて、躍動感が消えている。曼荼羅も写される過程の中で、初期の精力や活気に溢れるというものが、消えてしまうんですね。ここに密教の伝承の先細りという問題があります。 



【注1】延暦19年(800)〜貞観2年(860)京都左京の人。はじめ儒学を学ぶが、後に空海に師事し密教を習う。空海十大弟子の一人。空海の詩文を集めて『性霊集』10巻を編纂。著書に『空海僧都伝』などがある。
【注2】大同4年(809)〜元慶8(884)14歳で比叡山に入り、義真に天台を、円珍に密教を学び、後に東寺の実恵に金剛界法、禅林寺の真紹に阿闍梨位灌頂を受法した。862年に真如とともに入唐し、経論、仏像など50数点を請来した。
【注3】密教で行う頭上に水をそそぎかける儀式。古代インドで国王の即位や、立太子の式典で、四大海の水を頭に注ぐ儀式を仏教が採用したもの。密教において特に重要な儀式として発達した。