当館のご案内展示会のご案内所蔵品実技講座講演会図録頒布ご利用・交通のご案内リンク集

講演会要旨(前編)

「美に真心を込めて−日本仏画の系譜−」     講師 安嶋紀昭氏

仏教絵画と一口に申しますが、本来は礼拝の対象です。仏様を拝むために描いたり造ったり、あるいはご本尊にして修法や修行を行いますが、その中の大きな役割として仏教とはどういうものであるか伝えていくということがあります。これは文字で書き表さずに絵で表すこともよく行われてきたので、色々な情報を絵の中に入れているのです。この情報を読むのに少し修行が必要になりますが、今日は仏教絵画の読み方を皆さんとご一緒にみていこうと思います。

金剛峯寺蔵・仏涅槃図

これは和歌山県の高野山にある金剛峯寺の仏涅槃図です。前回の講演会(館だより87〜92)でこの話を中心にしましたので覚えのある方もいらっしゃると思います。この絵は応徳三年(1086)に日本で描かれました。この絵で、涅槃図の登場人物を説明しますと、画面中央に釈迦が横たわっていて、枕元に近いところに弥勒菩薩がいます。この人は釈迦が死んでから五十六億七千万年経ってから、この世に仏として現われる菩薩です。その間は地上に如来がいなくなってしまう無仏の時代になりますが、そのいない間、人を救うのが地蔵菩薩です。ですからこれは、過去、未来、現在という形で仏が描かれることになります。

さてこの絵を描いた画家が、見る者の視線をどこにもっていきたいかというと、画面中央で横になっている釈迦如来の頭部周辺です。昔はお堂の中の灯明の光で見ていますから、暗いところは暗く、明るいところはより明るく見えたわけです。ですからこの辺に白く塗った人物を集めています。他に白いところを探していくと、画面の境界線に当たるところ、つまり画面の外枠に白いものをもってきて、そこが画面の端であることが分かるようにしています。

さて画面中央で横になっているのが釈迦如来ですが当時、釈迦は人間の肉体を借りて、この世に出現した仏そのものでした。仏というのはイメージとして掴みづらいですが、この世界を創っている原理のようなものが仏というものです。これを真如、法、仏性などと様々な呼び方をしますが、究極の真実のようなものが仏です。しかしそれでは何のことか分からないので、人間の肉体を借りて仏の本質が現れたものが釈迦如来である、ということを仏教では考えます。
ここではその人物が死ぬ場面ですが、この「死」の意味が成仏とは異なり、元々仏であり、仏の本質が肉体を借りていたので、本質に還って行くというような思想です。肉体の死は限界がありますが、仏そのものは永遠不滅で変化がないものです。しかし我々は釈迦が死ぬというと、やはり釈迦如来というものに愛着を断ち難く号泣します。ですから釈迦の周りで泣き叫んでいる僧侶たちはその死を単純に悲しんで泣き、一方、菩薩たちは仏性を悟っていますので、静かに見つめているのです。このような事からこの絵を見た人は、仏性を理解することになります。
この絵で重要なのは、純陀(チュンダ)という人なのですが、山盛りのご飯を釈迦に捧げようとしている。釈迦がクシナガラに来た時、この人がキノコ料理を差し上げて、その料理に当って釈迦は亡くなります。普通に考えると直接の死の原因を作った大悪人のようですが、仏教ではそう考えません。釈迦は人間を超越した存在なので、死んだり病気にはならないのです。しかし、肉体が借り物であって、仏が宿ったとしても、その肉体は滅びるということを我々に示すために死ぬわけです。
その証拠に、釈迦が死ぬというので、釈迦の生母の摩耶夫人が?利天から泣き叫びながら降りてきます。すると釈迦は、母のために死んでいるのに起き上がり、自分は永遠不滅であることを教え諭します。それからもう一回死ぬのです。死ぬのも自由自在ですから、純陀の料理が悪いという問題ではないのです。むしろ純陀はこの後、如来になることが約束されます。釈迦は純陀の料理を食べますが、仏に対して供養をするというのは一番の善行です。釈迦はもうすぐ死ぬのですから供物は何もいりませんでした。並みいる仏や菩薩が供物を差し上げようとしたのに、釈迦はそれらを断り、純陀の供物だけは受け取ります。それは純陀が供物を、すべての迷える者の代表として差し上げたからです。これには非常に深い意味があって、釈迦がこの供物を受け取ったことにより、迷える者たちは釈迦に対して供養が出来たことになります。仏に対して供養が出来たので、迷える人間たちは救済の道が開かれたことになるのです。ですから純陀が画面のこの場所にいるのが非常に大事なのは、例えばこの絵を壁に掛け、釈迦の法要を行った時に法要をした人たちの供物が、純陀を通じて釈迦に差し上げることが可能になるので、法要に参加した人たちは成仏が出来るのです。